朝や昼、はたまた夕方

吾輩はマリンの手が嫌いではない。

近ごろの吾輩は、専らオーディオの裏で眠る。
オーディオのさらに奥にある本棚の最下段は空っぽで、吾輩が身を置くにぴったりなのである。

朝や昼、はたまた夕方、マリンは目をさましてすぐ、おはようと顔を見せにくる。

吾輩はそんな気分になったときにだけ、アンプの上にのぼって、マリンに顔を寄せるのだ。
すると、床に這いつくばったマリンからたちまち伸びてきた手が、吾輩を撫でるのである。

吾輩を撫でると人間は、すぐに眉をさげて笑う。
吾輩は、人間の幸福に貢献しているのだ。

 

ものの増えていくこと

吾輩のものが増えていく。
ヨッピーとマリンは、吾輩のものを準備することがたいそう楽しいようである。

食器、ランチョンマット、トイレにはじまり、穴や虹色のはね、ボールなど、毎日のように吾輩のものが増えていくのだ。

ヨッピーとマリンがにこにことこちらを見るので今度はなにを手に入れたのかと思っていると、吾輩の食事を保管する容器であった。

彼女らは喜んで笑いかける。
確かに吾輩のものではあるが、吾輩がそれに触れることはないということに気づいていないのだ。

しかし、気の悪いことではない。
そうして吾輩は、彼女らにやさしく鳴いてやるのである。

ワールド・ニャップ

吾輩はボールを持っている。
青、黄、橙、それから青。

夜中は吾輩の時間である。
彼女らはそれを大運動会と呼ぶ。

昨夜、彼女らの観るテレビのなかでも、吾輩のそれとよく似た運動会が行われていた。
ボールを追い、走りまわる人間に、人間が熱狂しているのだ。

しかし、あんなにもの大勢に対してひとつのボールでは、つまらぬ。
人間とか可笑しなものである。

振動と音楽をききながら

吾輩は耳がよい。
そして吾輩の耳は、よい音を迎え入れることを好むのである。

ヨッピーとマリンの家では、音楽がかかり続けている。
ときどき音の大きすぎることもあるが、夜中には近所迷惑だからとやや小さくなる(だが、それよりも窓を閉めるべきであることに気づいていない)。

吾輩がこの家で気に入った場所のひとつは、スピーカーの裏である。
はじめはスピーカーの正面にいたこともあったが、裏では振動が心地よい。

大きな木の裏で、振動と音楽を聴きながらいねむる。
そうしていると、ヨッピーやマリンが食事をもって吾輩を呼びにくるのである。

土曜日の単純構造

吾輩はあたらしい人間を見た。
来客かと思いきや、どうやら以前ここにいた人間のようである。

土曜日の昼下がり、玄関のほうで扉の開閉音が聞こえたので、吾輩の隠れ家へ飛びこむ。

その場所から観察をつづけていると、見たことのない男が部屋へやってきた。
ヨッピーやマリンともずいぶん親しいようである。

やがて男は、ヨッピーの前に腰かけた。
そして毛を刈られながら、鏡ごしにヨッピーと話をしている。

そこへ聞き耳を立てると、男はもともと彼女らと一緒に住んでいたことがあり、今はときどきこうしてやってくるらしい。

これは「散髪」という。
マリンがわざわざ教えにきたのだ。

それから、あの男がマリンの父親だということも教えていった。

人間の世界は、謎めいて見えるものも、案外単純にできている。

ひとつの黄色い球

吾輩がこれまで見たことのないそれをつつくと、遅れ気味に音を出す。
つつくと爪にくっついて回り、また音を立てる。

笑みをしらじらしく抑えながら、マリンが吾輩のもとにひとつの黄色い球を置いていった。

首を突き出して鼻を寄せると、やわらかい毛にくすぐられる。
つつくと少し遅れてガランと音を立てるので、偶然かもしれぬと何度か蹴ってみた。

するとあのやわらかい毛は、吾輩の爪にひっかかり、吾輩がぐるりと回転してもついて回る。

吾輩が少し気に入ったようすを見せると、ヨッピーもマリンも、事あるごとにそれを持って吾輩に呼びかける。

ばかのひとつおぼえというやつだが、吾輩はそれに誘い出されてやることにしている。
玩具は、吾輩が遊んだときはじめて玩具となるのだ。

とんぼの羽を追う

吾輩の目前に、ふらふらと浮遊する羽があった。
前足で触れるとすぐに飛び上がり、噛みつくとすぐに下降していくのである。

先日、ヨッピーが吾輩の玩具を注文していた。
なぜ知っているかといえば、その後ヨッピーがうれしそうに吾輩に報告しにきていたからに他ならない。

それから二日が経った夕方、まどろんでいた吾輩の目前で虹色の羽が浮遊している。
見慣れぬ動きを前足でつつくと、光を反射させながらばたばたと震えた。

ヨッピーたちが「とんぼ、とんぼ」といって喜んでいるので、吾輩はこの羽のなまえを知ったのである。

羽の先を追えば、人間の手から糸がのびている。

吾輩は彼らと遊んでやっているのだ。

 

まあよいということにして

吾輩がごろごろと鳴くと真上でよろこぶ者がいる。
人間の膝にのせられるのも、そう悪くないものである。

吾輩に触れる彼らの手は、やっとぎこちなさが薄れてきた。
それならばと甘んじてやっていると、いつのまにか膝にのせられている。

人間の膝の上というのは、思っていたよりも座りごこちがよい。
吾輩をくるむ新しいタオルも、吾輩ごのみの青である。

そうしているとうっかり喉を鳴らしてしまっていたが、見上げるとマリンがよろこんでいるので、まあよいということにして、吾輩は伸びをした。

彼女らの楽しみ

吾輩は穴にもぐった。
顔をだすと、ヨッピーとマリンがこちらを見ている。

夜中、人間たちが寝静まったので部屋を探索していると、はじめて見る穴があった。
鼻先でふれると柔らかく、中は真暗である。

しかしこれは、見かけよりもよい。
吾輩が動きまわると穴ごと大きく揺れ、回っても裏返っても転がらない丈夫な穴である。

ひと休みにふと穴の外へ顔をだすと、眠っていたはずのヨッピーとマリンと、目が合った。

吾輩がここへきて一週間が経つ。
彼女らの楽しみは、眠ったふりをして吾輩を盗み見ることである。

 

本はうるさくない

吾輩はまた隙間をみつけた。
この家にある本は、長い時間のにおいがするのでよい。

日夜、ヨッピーとマリンの家の観察は続いている。

吾輩は観察のためのいくつかの拠点をみつけたが、今日またひとつ、絶好の隠れ家を発見した。
テーブル裏と本のあいだに寝転ぶと、たいへん具合がいい。

この家ではいつも音楽がかかっており、本や紙がいたるところに並び、積まれている。
悪くない話である。

本はうるさくないのだ。

ヨッピーとマリンは「林竹二をまくらにしている」と言って笑っていた。
吾輩からすれば、人間なんてものは誰であれ同列である。